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2011-11-18

アンネナプキン(その3)アンネ社の斜陽

当ブログ1115日付「アンネナプキン(その2)会社も2度死ぬ」の続きです。

ユニ・チャーム社の創業者、高原慶一朗は、もともと建材を扱っていたが(大成化工株式会社)、アンネナプキンの発売後、生理用品に関心を持つようになった。

視察のため全米各地をまわった際、当時、日本ではまだ少なかった大型スーパーマーケットの店頭に、山のように積まれた生理用品を見て、「こんなに堂々と売るものなのか!」とショックをうけた。

高原は、生理用品のさまざまなサンプルを集めて帰国すると、古い映画館を買い取って工場に改造、高原の父親が経営する製紙会社から原料の供給を受け、1963年に生理用品の製造販売を開始した。

当時まだ、アンネナプキンの普及率が低かった中国地方を中心に営業を行い、さらに日本でも増え始めた大型スーパーマーケットにいち早く生理用品を卸したところ、これが当たった。

1972年には売上高が32億円に達し、ついにアンネ社を抜き去った。

73年のオイルショックでは、生理用品の買い占めも行われたが、ユニ・チャーム社はナプキンの増産、供給に努めた結果、流通、小売業の信頼を獲得し、シェア拡大につなげることができた。(『日本会社誌総覧』『週刊読売』)

その頃、アンネ社ではすでに斜陽の兆しが見えていた。

1971年3月、ミツミ電機は、対米輸出不振とカラーテレビの不買運動の影響を受けて、約7億円の大幅赤字を出し、社長(アンネ社では会長)の森部一は、16ある子会社のうち、アンネ社をふくむ4社を手放すことを決定した。

ミツミ電機は、アンネ社の株式の65%を所有していたが、それを本州製紙(当時)、ライオン歯磨(当時)、東レの3社にそれぞれ2:2:1の割合で売却した。

本州製紙と東レは、もともとアンネ社に原料を提供しており、ライオン歯磨は商品の流通ルートが重なることから、共同で経営に参加することになったのだ。

社長の坂井泰子は代表権のない会長に棚上げされ、新社長は本州製紙から送り込まれることになった。

「アンネ」の名がつくナプキンは、1985年の「アンネ キャティナプキン」を最後に消え、泰子も1988年に会社を去った。

そして、1993年1月、アンネ社はライオンに吸収合併された。

(文中、敬称略)

>>「アンネナプキン(その4)エピローグ」に続く


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