toggle
2011-11-26

アンネナプキン(その4)エピローグ

当ブログ1118日付「アンネナプキン(その3)アンネ社の斜陽」の続きです。

ミツミ電機を離れたあとのアンネ社と、社長だった坂井泰子さんに関する雑誌記事は、なぜか揶揄的なものが多い。

以下引用> 「アンネ」そのものは五十五年にライオンの子会社となり、現在は製造だけを担当。研究開発もライオンが行い、アンネブランドも「郷愁を抱く人のために」(ライオン広報部)わずか一種類あるのみ。

「アンネという名前も、今となってはネーミングがダサい」(ライオン広報部)

確かにいまどき「アンネになっちゃった」なんていうのは、恥ずかしい。生理とハッキリ言うほうがカッコイイのだとか。(中略)当の泰子女史はといえば、五十五年には会長も退き、現在は相談役として残るだけ。

「新製品がでると文字通りご相談にあがるわけです。パッケージなどに具体的なご意見を頂いてます。性格がおハデなせいか、赤系統がお好きなようですね」(ライオン広報部)

夫の秀弥氏は、かつてアンネの一代理店にすぎなかったあのピップフジモト副社長となり、泰子さんは専業主婦として夫の仕事をサポートするだけ。

五十五歳になり、みずからの実験もままならずか、今や海外旅行に明け暮れる毎日とか。

(『週刊文春』1989年5月4・11日号)

これは吸収合併の少し前の記事だが、泰子さんとアンネ社の功績についてはまったく触れていない。

こうした記事について、元社員の方は、「なくなっちゃった会社だから、叩きやすいんでしょ」と寂しげだった。

それにしても、ライオン広報部は、なぜこんなにアンネを目の敵にするのだろう。

私もかつて、アンネについての取材がしたくて、ライオン広報部に電話をかけたことがあるのだが、応対した女性から、「担当者がいないから後ほどこちらから連絡する」と言われた。

しかし、いつまで経っても連絡が来ないので、2ヶ月後に電話をかけると、また「こちらから連絡する」と言われ、以来、10年以上連絡は来ない。

もしかしてライオンには、「アンネについての取材は拒否する」といった不文律(成文律かも)でもあるのだろうか?

話が逸れた。

女性たちの生活を便利にしたいという一念から始めた仕事が、傾きかけた途端に、揶揄や嘲笑の的となる。

「若くてきれいな女社長」と持ち上げたマスコミは、彼女が窮地に陥ったとき、もう味方には付いてくれなかった。

私は、アンネナプキンとアンネ社について書こうと思ったとき、まず坂井泰子さんと連絡をとろうとしたのだが、すぐに挫折し、次にミツミ電機の森部一さん、PR課長だった渡紀彦さんと連絡をとろうとした。

しかし、ミツミ電機に電話したところ、森部さんはすでに亡くなられていた。

渡さんは、『アンネ課長』(日本事務能率協会、1963年)以降、多数の著書を出版されていたので、出版社に問い合わせたが、やはり亡くなられていることがわかった。

その後、元社員の方々からお話を伺うことができたのだが、森部さんは銀行の指導でアンネ社の株を手放したことを悔やみ続けていたという。

また、それについて泰子さんは多くを語らなかったというが、まさか森部さんが株を手放すとは思っていなかったらしい。

渡さんは、アンネ社のPRで広告業界に名を馳せ、アンネ社がオーナーチェンジする前に、東急エージェンシーに引き抜かれ、顧問を2年ほど務めていた。

その後、独立して、経営コンサルタント会社「ワタケン」を設立。

マーケティングや宣伝に関心のある若者たちを集めた「リードの会」も主宰していた。

最初から最後まで「リードの会」に所属していた方によれば、この会で渡さんがアンネ社について触れたことは、一度もなかったという。

多忙のためか、「自分はアンネにいるかぎりは独身だ」と宣言していたという渡さんは、『アンネ課長』のあとがきに、「私はいま、ますます孤独である」「私は公私とも、さびしいのである」と書いている。

渡さんは、アンネ社が吸収合併される前に癌で他界したが、危篤と聞いて元同僚たちが駆けつけたとき、かたわらには妻がいたという。

渡さんの孤独は解消されていたようだ。

泰子さんは、外部との接触を一切断った。

その理由については、元社員の方々に尋ねてもわからなかった。

アンネ社が消えていく過程で複雑な思いをされたことが原因なのか、それとも、アンネのことは過去のことと割り切られたのか。

もともと、快適な生理用品を作りたいという思いからアンネ社を設立した泰子さんにとって、利益を上げたい、会社を所有し続けたいという執着はほとんどなかったようだ。

それが、潔い引退にも表れていた。

泰子さんが世に送り出した使い捨てナプキンは、これからもずっと女性たちのかたわらにあり続けるだろう。


関連記事