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その3:日本における女子スポーツの萌芽――人見絹枝の登場

 アリス・ミリアが中心となって開催した「世界(万国)女性競技大会」の第二回イエテボリ大会(一九二六年)には、日本からただ一人、人見絹枝(ひとみきぬえ)が参加した。これは日本にも女子スポーツ連盟ができたことによるが、実はこの連盟は、人見絹枝という逸材を国際大会へ送るため、急ぎ創設されたのだった。

 日本でまだ女子スポーツが一般的ではなかった一九二〇年代、絹枝が進学した岡山高等女学校は他に類をみないほどテニスに力を入れていた。

 絹枝もテニスに興味をもったが、家計が厳しく、「ラケットが欲しい」というひと言が言えなかった。それでもテニスをやりたいという気持ちを押さえきれず、思い切って母に相談し、父に内緒でラケットを買ってもらった。ここから絹枝のアスリートとしての人生が始まった。

 スポーツウェアがなかった当時、女性は袴(はかま)をはいてその裾をひもでしばり、足袋を履いて運動した。しかし絹枝の大きな足に合う十一文半(約二七・五センチ)の足袋は、岡山市内の呉服屋では扱っておらず、手に入れるのに苦労した。

 また、身長は当時の成人女性の平均より二〇センチ程高かったため、近所の少年たちにからかわれたり、外出先で無遠慮な視線で眺められたりすることもしばしばあった。その程度によっては深く傷つき、遣る瀬無い気持ちを日記に記した。

 秋になり日が短くなると、練習が終わる頃には日が傾き始めた。テニス仲間たちが、家が遠い絹枝を案じると、絹枝は「川沿いの道に出たら夕日と競争で走ります。心配しなくて大丈夫です」(小原敏彦『KINUEは走る 忘れられた孤独のメダリスト』健康ジャーナル社)と言って笑った。竹を割ったような性格の絹枝は、周りの皆から好かれた。

 初めテニスで頭角を現した絹枝は、陸上競技にも目覚め、女学校校長の強いすすめで東京の二階堂体操塾(現日本女子体育大学)へ進学した。その後、第二回明治神宮競技大会(一九二五年)へ出場し、五十メートル走と三段跳びで優勝を果たした。

 三段跳びは十一メートル三五センチという世界新記録であった。この活躍は全国紙で報じられ、絹枝は一躍有名人となった。

 第二回世界(万国)女性競技大会へ招聘(しょうへい)された絹枝は、「私は競技を始めて満一カ年にならないのだから、世界の名選手の間に伍して競技することはできない」と参加を固辞したが、日本中の期待に背中を押され、悲壮な決意でイエテボリへと旅立った。

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