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その2:女だけのオリンピック――アリス・ミリアと国際女子スポーツ連盟

 近代オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタンとIOC(国際オリンピック委員会)は、女性のオリンピックへの参加を拒み続けたが、女性アスリートたちは粘り強く門戸をこじ開けていった。

 一八九六年の第一回アテネ大会は「女人禁制」だったが、第二回パリ大会には一二人、第三回セントルイス大会には八人、第四回ロンドン大会には四三人の女性が参加している。しかし、参加を許されても非公式種目であったり、公式種目であってもメダルの代わりに賞状しかもらえなかったりした。

 こうした状況に対して立ち上がったのがフランスのフェミニスト、アリス・ミリアである。彼女は一九一七年に「フランス女子スポーツ連盟」を設立。これに呼応するように欧米各国で女子スポーツ団体が組織されていった。

 彼女たちはIOCに対し、陸上競技に女性を参加させるよう働きかけたが、彼らは「聖域」であるトラックやフィールドに女性が進出することを断固拒んだ。それでも彼女たちは走ることや跳ぶこと、競い合うことを諦めなかった。一九二一年には「国際女子スポーツ連盟」を組織し、続いてパリで「世界(万国)女子オリンピック大会」を開催するに至る。

 IOCが「オリンピック」という用語の使用を認めなかったため、「世界(万国)女性競技大会(Women’s World Games)」と名称こそ変更せざるをえなかったが、大会自体は数万人の観客を動員することに成功した。その後も四年ごとに、イエテボリ(ヨーテボリ)、プラハ、ロンドンで開催し、会を重ねるたびに参加国、参加選手を増やしていった。

 もはやIOCも女性の陸上競技への参加を拒み続けることが難しくなり、一九三六年に既存の男子スポーツ団体である「国際陸上競技連盟」が管理することを条件に参加を認めた。その結果、「国際女子スポーツ連盟」は存在意義を失い消滅したが、同連盟が女子スポーツの発展に果たした役割は大きい。