一九六四年の東京オリンピックで金メダルを獲得した日本女子バレーボールチームの選手は、ほぼ、大松博文(だいまつひろぶみ)監督率いる日紡貝塚(大日本紡績貝塚工場)チームで固められていた。
国内で圧倒的に強かった一企業のチームが、そのまま日本代表チームとなったのである。
東京オリンピックからさかのぼること三年。日紡貝塚チームはヨーロッパに遠征し、「回転レシーブ」や「木の葉落とし(変化球サーブ)」を駆使して各国の代表チームに二二連勝した。これを評してソ連のメディアが使い始めた呼称が「東洋の魔女」である。
翌一九六二年十月にモスクワで行われた世界バレーボール選手権大会でも、同チームは優勝をおさめた。
当然ながら日本国内では、東京オリンピックでの金メダル獲得への期待が高まった。しかし予想に反し、当人たちはオリンピック出場を渋った。理由は「結婚問題」だった。
多くの女性たちが二〇代前半で結婚していた当時、二九歳のキャプテン河西昌枝を筆頭に、選手たちは「婚期」を逃してしまうのではと焦っていた。
監督の大松も、選手たちを「幸福な家庭をもたなければならない娘たち」ととらえ、一刻も早く「嫁がせたい」と考えていた。
しかし高まる期待に、とても引退できるような状況ではなかった。大松もそして選手たちも、金メダルを獲得する以外に引退の花道はないと腹をくくり、猛練習に明け暮れた。
そして臨んだ東京オリンピック。「東洋の魔女」は決勝でソ連を破り、金メダルを獲得した。しかし彼女たちのゴールはそこではなかった。
翌年「魔女」たちは退社し、次々と結婚していった。時の首相佐藤栄作の仲人で自衛官との結婚を決めた河西の披露宴はテレビ中継された。
世界の頂点に立った「魔女」たちの真の目標が「結婚」にあったというアンビバレントに、当時の一般的な結婚観が現れている。河西は幸せな家庭生活を送る一方で「ママさんバレー」の普及に努め、二〇一三年に八〇歳で他界した。