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オバサン・月経・犯罪

アンネナプキン(その3)アンネ社の斜陽

当ブログ1115日付「アンネナプキン(その2)会社も2度死ぬ」の続きです。

ユニ・チャーム社の創業者、高原慶一朗は、もともと建材を扱っていたが(大成化工株式会社)、アンネナプキンの発売後、生理用品に関心を持つようになった。

視察のため全米各地をまわった際、当時、日本ではまだ少なかった大型スーパーマーケットの店頭に、山のように積まれた生理用品を見て、「こんなに堂々と売るものなのか!」とショックをうけた。

高原は、生理用品のさまざまなサンプルを集めて帰国すると、古い映画館を買い取って工場に改造、高原の父親が経営する製紙会社から原料の供給を受け、1963年に生理用品の製造販売を開始した。

当時まだ、アンネナプキンの普及率が低かった中国地方を中心に営業を行い、さらに日本でも増え始めた大型スーパーマーケットにいち早く生理用品を卸したところ、これが当たった。

1972年には売上高が32億円に達し、ついにアンネ社を抜き去った。

73年のオイルショックでは、生理用品の買い占めも行われたが、ユニ・チャーム社はナプキンの増産、供給に努めた結果、流通、小売業の信頼を獲得し、シェア拡大につなげることができた。(『日本会社誌総覧』『週刊読売』)

その頃、アンネ社ではすでに斜陽の兆しが見えていた。

1971年3月、ミツミ電機は、対米輸出不振とカラーテレビの不買運動の影響を受けて、約7億円の大幅赤字を出し、社長(アンネ社では会長)の森部一は、16ある子会社のうち、アンネ社をふくむ4社を手放すことを決定した。

ミツミ電機は、アンネ社の株式の65%を所有していたが、それを本州製紙(当時)、ライオン歯磨(当時)、東レの3社にそれぞれ2:2:1の割合で売却した。

本州製紙と東レは、もともとアンネ社に原料を提供しており、ライオン歯磨は商品の流通ルートが重なることから、共同で経営に参加することになったのだ。

社長の坂井泰子は代表権のない会長に棚上げされ、新社長は本州製紙から送り込まれることになった。

「アンネ」の名がつくナプキンは、1985年の「アンネ キャティナプキン」を最後に消え、泰子も1988年に会社を去った。

そして、1993年1月、アンネ社はライオンに吸収合併された。

(文中、敬称略)

>>「アンネナプキン(その4)エピローグ」に続く

アンネナプキン(その2)会社も2度死ぬ

当ブログ「生理用ナプキン誕生50周年」に書いたように、20111111日は、元祖生理用ナプキン「アンネナプキン」が発売されてから、ちょうど50年目にあたる記念日だった。

これなくして女性の活躍は語れないというほどの重要な存在であるナプキンが誕生してから、40周年でも60周年でもなく、50周年という節目である。

このことをできるだけ多くの方々に知っていただきたくて、新聞に投書したのだが、ダメだった。

ボツを確認してから、50周年についてブログに書いた(ブログに書いたことは、投稿してはいけない決まり)。

結局、いずれのメディアもナプキン50周年について、触れていなかったようだ。

もしアンネ社が存続していたら、華々しく記念式典でもやっていたかもしれないし、メディアも注目しただろう(新聞やテレビは、女のシモのネタは扱わないかもしれないが)。

しかしアンネ社は消滅し、語る人もいない。

人は2度死ぬ(命が終わったときと、人々から忘れ去られたとき)と言うが、会社も2度死ぬ。

1961年に衝撃的なデビューを果たしたアンネナプキン。

渡紀彦PR課長の強力な広告戦略のもと、アンネ社の売り上げは、会社設立の翌年10億円、翌々年21億円と急成長を遂げた。

会長の森部一は、新工場を設立、アンネの商品を輸送するため、アンネ商運株式会社も設立した。

朝日新聞社広告部の調査によると、発売直後の196112月、アンネナプキンを使用したことがある女性の割合は、全有経女性(月経がある女性)の2%。それが1972年には、80%にまで伸びている。

アンネ社の急成長にあやかろうと、5年後には、後続会社が300社にも上った。

最初の躓きは、196410月の薬事法違反だった。

アンネナプキンの登場が、それまで停滞していた生理用品市場を活性化させた結果、既存のメーカーや後続会社が、類似品を続々と発売。

それに対抗するため、アンネ社も商品増産に力を入れた。

しかし、ナプキンのポリエチレン個装だけは機械化されていなかったため、工場周辺の農家に下請けに出したところ、薬事法に抵触、1週間の営業停止処分となってしまった。

アンネ社は約80万箱の製品を回収し、社長の坂井泰子は泣きながら記者会見を行っている。

その後もアンネ社は業界第一位のシェアを守っていたが、後続会社の一つ、ユニ・チャーム株式会社が徐々にアンネ社に迫っていた。

(文中、敬称略)

>>「アンネナプキン(その3)アンネ社の斜陽」に続く

アンネナプキン(その1)生理用ナプキン誕生50周年

今日、20111111日は、使い捨て生理用ナプキンが誕生してから、ちょうど50年目にあたる。

日本では、月経に対する不浄視が根強く、長い間、生理用品は日陰者扱いされていた。

戦後しばらくの間は、脱脂綿と手製の丁字帯や市販の月経帯を組み合わせた処置が主流だったが、経血が漏れたり、脱脂綿が転がり落ちたりすることも、ままあった。

――女性たちが月経中であることを忘れ、仕事やスポーツに打ち込めるような生理用品を作りたい――

そんな思いから、当時27歳の専業主婦坂井泰子が、会社を設立し、開発、販売したのが、生理用ナプキンの元祖「アンネナプキン」である。

泰子は、夫の秀彌とともに、会社設立のための出資者を探すが、いずれも「女のシモのものでメシを食う」ことに抵抗を感じ、二の足を踏む。

会社経営のかたわら、電気製品の発明も行い、「第二の松下幸之助」と呼ばれていたミツミ電機社長の森部一が、「社会に奉仕できる、貢献できるという観点からこの事業を始めるのなら」という条件で、資本金1億円と、敏腕宣伝マンの渡紀彦を託してくれた。

泰子は社長に就任。会長に就任した森部も、33歳の若さだった。

新会社のPR課長に就いた渡は、生理用品を扱うということに最初は抵抗を感じていた。

しかし、毎月1000万円の宣伝費が投じられることや、まだ会社名も商品名も決まっていないということが、宣伝マンとしての職業意識に火をつけた。

試行錯誤のうえ、アンネナプキンが完成。

ナプキンという言葉を日本で最初に生理用品に使おうと考えたのが渡、アンネという名前を提案したのは泰子だった。

渡は、アンネナプキンを世に送り出すのに相応しいキャッチコピーを社内外から募集。

そのなかに、渡が「千万金に値する」と思うコピーがあった。

40年間お待たせしました! いよいよアンネナプキン登場!」

アメリカでは、40年前に紙綿製の使い捨て生理用品が発売されており、すでに有経女性(月経のある女性)の80%が使用していた。

アメリカに遅れること40年、やっと日本の女性も快適な生理用品を手にすることができるというわけだ。

このコピーは、実に歴史に残るものだった。この後、アンネ社は数々の名作と言えるキャッチコピーを制作し、次々と「雑誌広告賞」を受賞するのだが、このデビュー作がなんと言っても一番有名だろう。

渡は、このキャッチコピーを使った広告を発売当日に一斉に出すという方針にこだわった。

そのほうが効果的だと考えたのである。

ところが、工場長から、ラインの不調のため発売予定日の101日までに生産が間に合わないとの連絡が入り、会長の森部は発売日の延期を決定した。

この決定は、渡には承服しがたかった。

前宣伝を一切やらないという方針にこだわった渡は、当初の発売予定日に合わせて、広告代理店や新聞社と契約を交わしてしまっていたのだ。

すでに予定変更がきかないメディアもあった。

渡は会長の森部に、「アンネを見殺しにする気ですか? 発売日を延期するなんて、自殺するに等しい!」と本音をぶつけている。

しかしすぐに気を取り直し、延期するなら字面のよい1111日」にしようと主張。

電車内の広告は1111日に変更、朝日新聞の一面広告は11月下旬に変更し、変更がきかない雑誌広告は「前宣伝」と見なすことにした。

渡のプロデュースによって、アンネナプキンが衝撃的なデビューを果たしたことは事実だが、発売と同時に複数の全国紙に一面広告が掲載されたといった話は「伝説」にすぎない。

かくして、「40年間お待たせしました!」のコピーは、今からちょうど50年前の1111日、電車内に登場したのである。

アンネナプキンの売れ行きはすさまじく、しばらくの間は品薄状態が続いた。

後続会社も次々と誕生し、ナプキン市場は急激に広がった。

ナプキンは、高度経済成長期の女性の社会進出を支え、その女性たちによって消費されたと言える。

そして、アンネ社が制作したおしゃれで爽やかな広告は、月経に対する暗いイメージを払拭し、「アンネ」は月経の代名詞となった。

誕生から50年。つまり、日本の有経女性は全員、ナプキン世代と言える。

今日くらい、自分たちの生活を支えるこの小さな日用品に、思いを馳せてみてもいいだろう。

文中、敬称略)

>>「アンネナプキン(その2)」に続きます。

※ アンネ社の誕生と全盛期については、拙著『生理用品の社会史――タブーから一大ビジネスへ』(ミネルヴァ書房)第3章が詳しいです。

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