その5:人見絹枝と有森裕子――運命の八月二日
一九二八年のアムステルダムオリンピックから、陸上競技への女性選手の参加が認められた。これは〝聖域〟に女性を入れたくなかったクーベルタンが、IOC会長を引退したことによる。しかしIOCは、女性選手の「参加」は認めたが、「得点」は認めなかった。
日本人女性としてただ一人、アムステルダムオリンピックに参加した人見絹枝は、選考会で世界新記録を出すことができた百メートル走で、メダルを狙った。日本の新聞は予選の様子を「女がトラックを走るというので野次馬たちは喜んだが、選手たちは女らしくない断髪で、恰好も男のようだった。しかし走るのが鈍いところはやはり女だ。西洋の女に比べると、絹枝嬢の態度や脚は男のようだった」と報じた。
優勝候補と見なされていた絹枝は、予選は一位だったが、決勝では四位となってしまった。絹枝にとって初の大敗北だった。このままでは日本に帰れないと思いつめた絹枝は、念のためエントリーしていた八百メートル走に、急遽出場することにした。
監督は、「世界の強豪たちを相手にいきなり八百メートルを走るなんて無謀だ」と止めたが、絹枝は九人の外国人選手たちとともに、世界記録を大きく上回るスピードで走りきり、準優勝を果たした。
ゴール後、倒れ込む選手が相次いだため、このレースは「死の激走」と呼ばれ、以後、一九六〇年のローマ大会で復活するまで、女子八百メートル走は廃止された。
その後も絹枝は、次々と国内外の大会に出場し、その合間を縫うようにして女性スポーツ興隆を目的とした講演会を年間二百件以上もこなした。そして、過労から乾酪性肺炎を発症し、一九三一年八月二日、二四歳で亡くなった。
一九九二年の同じ日、絹枝と同じ岡山県出身の有森裕子が、バルセロナオリンピックのマラソン競技で銀メダルを獲得した。これは、絹枝の「死の激走」以来、六四年ぶりに日本女子陸上界にもたらされたメダルだった。この年月の長さが、二人の記録がいかに特別なものであったかを物語っている。