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2019-09-01

その4:国家を背負った時代――人見絹枝の葛藤

 大正の終わり、まさに彗星のごとく現れた天才アスリート人見絹枝は、日本からただ一人、イエテボリでの第二回世界(万国)女性競技大会(一九二六年)へ招かれた。あまりのプレッシャーに、地元岡山を立つ際、見送りに来た家族や友人たちの前で泣き出すほどだった。

 大会開催直前、絹枝が所属していた大阪毎日新聞社から「シッカリ ニホンノ タメニ ヤレ」という電報が届いた。絹枝はうれしく思う一方で、さらなるプレッシャーを感じた。

 開会式は、五万人の観衆が見守る競技場で行われた。参加国は十カ国。日本以外はすべてヨーロッパの国だった。絹枝は他国の選手団に続いて、一人で一周四百メートルのトラックを歩いた。情報不足のため、掲げる国旗が他国のものよりひと回り小さかったり、正面スタンドに向かうときは挙手の礼を交わすといった行進の作法を知らなかったりしたため、忸怩(じくじ)たる思いを味わった。

 しかし、競技では走り幅跳び一位、立ち幅跳び一位、円盤投げ二位、百ヤード走三位という成績で個人優勝を果たし、大会会長のアリス・ミリアから金メダルを贈られた。

 走り幅跳びでは競技中、スパイクで右の掌を六カ所も引き裂いてしまい、流血しながら決勝に臨んだのだが、五メートル五〇センチの世界新記録でイギリス人選手に逆転した。怪我を負いながらの驚異的な成績の裏には、「ニホンノ タメニ」という悲壮な決意があった。

 絹枝に限らず戦前のアスリートたちは、国家を背負い捨て身で戦っていた。翻って現代のアスリートたちは、「楽しんできます」と屈託のない笑顔で世界の大舞台へ出かけていく。アスリートとは、いずれの時代、国、政治的状況に生まれるかで、その運命を大きく左右される存在といえよう。

 ましてや「女が走るなんて」と言われた時代、絹枝はどれだけの葛藤を抱えながら、一人海外で戦っていたのだろう。

 イエテボリで好成績を収めた絹枝は二年後、アムステルダムオリンピックに出場することになるが、そこで「死の激走」と呼ばれる走りを見せることになる。

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