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2019-09-01

その7:前畑秀子――金メダルの次は「結婚」

 本稿「その4」で述べたように、かつてアスリートたちは、「国家」を背負って世界で戦っていた。中にはその重圧に耐えられずに、自死を考える者さえいた。ベルリンオリンピック(一九三六年)の競泳二百メートル平泳ぎに出場し、あの有名な「前畑ガンバレ!」のアナウンスのもと、金メダルを獲得した前畑秀子もその一人だった。

 秀子は、ロサンゼルスオリンピック(一九三二年)の同じ競技で、銀メダルを獲得していた。前年に、豆腐屋を営んでいた両親が相次いで病死、その悲しみを乗り越えての銀メダルだった。

 秀子自身は結果に満足し、引退も考えていたが、周囲は一位の選手との〇・一秒差を惜しみ、雪辱を促した。秀子は競技生活を続行し、翌年には世界新記録を樹立した。ベルリンオリンピックで金メダルをという期待は、いやが上にも高まった。

 ヒトラーが主導したベルリンオリンピックは、露骨に国威発揚に利用され、日本選手団も「負けたら帰れない」という空気に包まれていた。ベルリンへ向けて下関から船に乗り込んだ秀子は、デッキから海を見下ろし、「もし優勝できなかったら、帰りに船の上から海に飛び込んで死んでしまおう」と思いつめた。

 はたして秀子は、二位の選手と〇・六秒差で金メダルを獲得することができた。

 さて、当時の新聞は「前畑嬢」の活躍を華々しく報じた。「次は結婚だ、喜ぶ校長」という見出しの後に、秀子の親代わりを自認していた女学校校長の次のようなコメントが掲載されている。

「よくやってくれました、こんな嬉しいことはありません、これで残された問題は結婚です、あの娘も二十三になりましたから帰って来ましたら親に代って立派に結婚をさせ将来幸福に暮すやうにしてやりたい、私があの娘への最後の心づくしです」(原文ママ)。

 金メダリストも、「適齢期」に達すれば「次は結婚」だった。翌年見合い結婚し、二児をもうけた秀子は、水泳指導者として活躍し、女性スイマーの増加に貢献した。

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