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2012-10-20

永山則夫の精神鑑定医(その1)

ETV特集『永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~』

連続射殺犯永山則夫の死刑が執行されて15年。

逮捕から6年後に行われた、280100時間にわたる精神鑑定の録音テープが、初めて公開された。

公開したのは、当時永山の精神鑑定を行い、「永山則夫 精神鑑定書」をまとめた精神科医の石川義博

イギリスで最先端の精神医学を学んだ石川は、従来の精神鑑定の手法に加え、カウンセリングの手法を取り入れた。

永山は1949年、網走で8人きょうだいの四男(7番目)として生まれた。

父親は博打に走り、母親は行商で日銭を稼いだ。

永山には、網走時代の両親の記憶がない。

唯一、可愛がってくれた19歳年上の長女は、付き合っていた男と別れ、堕胎をしたことがきっかけで精神を病み、入退院を繰り返す。

父親を見限った母親は、出身地の青森へ帰るが、連れて行った子どもは3人だけ。捨てられた三女と次男、三男、そして5歳の則夫は、残飯をあさりながら生活し、大人たちの暴力の的となる。

則夫は、兄たちからも日常的に暴力を振るわれた。

則夫の母親ヨシもまた、親の愛情に恵まれず、暴力を受けながら育った。

1910年、利尻島生まれ。2歳のとき父親が死亡。母親と樺太へ渡り、子守りの仕事をさせられた。

母親の再婚相手から暴力を受け、母親はヨシと心中を図ろうとする。このとき4歳。

10歳のとき、母親が再々婚し、ヨシを置いて青森へ。ヨシは、ロシア極東の町を放浪しているところを保護され、母親のもとへ送られた。

永山の精神鑑定を行った石川義博は、この「虐待の連鎖」に着目。

事件を引き起こすにいたった「決定的因子」として、「劣悪な成育環境と母、姉らとの生き別れ等による深刻な『外傷的情動体験』と放浪時の睡眠障害、孤立状態、無知が複雑に交錯し、増強しあった結果」とまとめた。

「外傷的情動体験」とは、今でいうPTSDのことである。

しかし、東京地方裁判所は、この鑑定を重視しなかった。

永山も「この鑑定は、自分のものじゃないみだいだ」と批判。(鑑定書の中で使われていた「被害妄想」「脳の脆弱性」という言葉が、精神を病んだ姉を想起させ、受け入れたくなかったため、と番組では説明されていた)

石川は、裁判所ばかりか、永山にまで鑑定を否定されたことに「がっくり」きて、以後、精神鑑定の仕事は一切引き受けず、専ら患者の治療にあたった。

永山の精神鑑定書は、東京高裁では注目され、無期懲役の判決が下された。しかし、最高裁では軽視され、死刑が確定した。

永山の処刑後、独房に、石川が作成した「永山則夫 精神鑑定書」が残されていた。

それは、手製のカバーが施され、中には熟読の跡が見られた。

番組終盤、石川は番組スタッフからそれを手渡される。

「もっと早く知っていればね……。表面的な言葉(永山の「自分のものじゃないみだいだ」)だったのかもしれないけど、僕は真面目だからまともに受けちゃったですね。僕の人生を変えましたね。それがなかったら、きっと犯罪精神医学をもっともっと研究していたでしょうね。悔いはないですけどね」

77歳の石川の目に浮かんだ涙は、自分の人生を振り返ってのものか、それとも100時間をともに過ごした永山を思ってのものか。

いずれにしても、こうした経緯で犯罪精神医学者として精神鑑定を行っていた時期はそれほど長くなかった石川だが、「犯罪における月経要因説」の形成について、非常に影響力のある精神鑑定を行っていた。

つづく

(文中敬称略)

ETV特集『永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~』の再放送は今夜。

 

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