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2014-08-06

「対馬丸事件」から70年

NHKの『地方発ドキュメンタリー』。

8月5日の放送は「対馬丸 消えない傷 ~沈没70年目の告白~」

1944(昭和19)年8月22日夜、沖縄から長崎へと航海中だった疎開船「対馬丸」が、アメリカの潜水艦に撃沈され、子どもや引率の教師ら約1500人(2004年時点で氏名判明者1418人)が犠牲となった。

那覇市の「対馬丸記念館」には、70年を経た今になって次々と事件の生存者や遺族から手記や遺品が寄せられている。

対馬丸事件について国が布いた緘口令が長い間尾をひいたこと、生存者や遺族が高齢化したこと、そして今の時勢などが関係している。

沖縄に暮らす99歳の女性は、70年前、国から勧められて家族を対馬丸で疎開させたことをいまだに悔やみ、「私がバカだったと思う」と繰り返す。

当時すでに多数の民間船が撃沈されていたにもかかわらず、国はそれを隠し、「安全だ」と説明した。しかし大陸へ3000人以上の兵隊を輸送していた対馬丸は、出航前から狙われていた。

また、国が沖縄からの疎開政策を進めていたのは、住民の安全のためではなく、沖縄が戦場となったとき高齢者や子どもが足手まといになると考えたからだった。

女性にとって、70年経とうが100歳を目前にしようが、決して風化しない記憶となった対馬丸事件。

児童たちとともに対馬丸に乗船し生き残った女性教師は、保護者たちから責められることが恐ろしく、栃木県で一生を暮らした。

事件から60年以上を経た晩年、部屋の隅に亡くなった教え子たちが座っていると話し、家族が否定しても、そう言い張ったという。死後に残されたノートには、教え子たちへの思いが綴られており、60代の娘がその思いを伝えるため、今、遺族たちを訪ね歩いている。

ここでも70年という時間の経過は、まったく意味をなさない。

沈没後、夜の海に投げ出され、漂流の末に救出された男性は、長い間、事件について聞かれるだけで「総身が毛立つ」ほどの拒否反応が出たが、今になって体験を手記にまとめた。

一番の動機は、子どもや孫たちに自分と同じ体験をさせたくないから。

「今の社会状況に対しては怖い思います。今の状況見たら、我々が経験したことが、あの世の中がまたやってくるのか、と」

体験者にしかわからないこの感覚は侮れない。

歴史を振り返ると、恒久平和などありえないことがわかる。しかしだからこそ知恵を振り絞って平和を維持する努力が必要なのだ。

日本という国で1945年以来続いている平和は、少し長めの戦間期にすぎないのだろうか。

 


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