3.11関連ドラマとNHKスペシャル
3.11関連のドラマをいくつか観たが、『NHKスペシャル』の優れたドキュメンタリーと比べると、いかにも浅い。
これがドラマの限界か、と思わせてくれた。
『3.11 その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞~』には、震災直後、 『モーニングバード』で「われわれ被災者は云々」と耳を疑うコメントをしていた長島一茂が、被災した新聞記者の役で出演。
少しは「被災」の意味を理解しただろうか。
3月3日の『NHKスペシャル』は「原発事故100時間の記録」。
原発事故の混乱のなかで失われた命に注目した。
浪江町の消防団長の男性は、震災当日、津波に襲われた請戸地区で、助けを求める複数の人の気配を感じた。
日が暮れ、翌日の救助を誓ったが、原発事故によって請戸地区は立入禁止となる。
「救えた命があったのに」と、今も自分を責め続ける。
請戸地区の捜索が再開されたのは、震災から1ヵ月後。
消防団長が、助けを求める気配を感じたあたりで、妻子を助けに自宅へ戻り被災した男性の遺体が発見された。
男性は、流れてきた屋根につかまる形で亡くなっており、目立った外傷はなく、衣服もきれいだった。
津波のあと、しばらく生きていたのではないか――。
男性の両親は、震災直後から捜索していれば、たくさんの命が救われたはず、と無念の思いを語った。
請戸地区で亡くなった人は、この男性をふくめ125人。全員が、「溺死」とされた。
原発から4キロの地点にあった双葉厚生病院。
入院患者たちは混乱のなか、公共施設、保健所、高校とたらい回しにされた。
同じような混乱は、ほかの病院でも起きており、移動中と移動直後に亡くなった人は、少なくとも68人。
双葉厚生病院で看護師長を務めていた女性は、こう語った。
「あれからずい分、時間が経ちました。でも時間が経つほどに、心が苦しい。とりあえず、生活が困らないほどに日常は回復しましたが、月日が経つほど、失くしたものの大きさを感じています」
3月5日の『NHKスペシャル』、「〈あの日から1年〉38分間~巨大津波 命の記録~」は、震災当日、釜石の地元記者が撮った映像に映っていた人たちの、その後を追った。
ある男性の娘は、勤め先の幼稚園で津波に遭い、行方不明に。
その日、男性は手帳に「奈津子と連絡取れず」と記した。
それから毎日欠かさず、手帳に一行、「奈津子と連絡取れず」。
それは今年に入ってからも続いていた。
2月、男性と妻は、手続き上の区切りとして、娘の死亡届を提出。
その日も、「奈津子と連絡取れず」と記した。
娘は亡くなったのではなく、連絡が取れないだけ。
男性はこれからも、手帳に同じ言葉を書き続けるのだろう。
3月7日の『NHKスペシャル』は、「〈あの日から1年〉仮設住宅の冬 いのちと向き合う日々」。
大槌町の仮設住宅に暮らす人たちを撮った。
仮設住宅ではすでに、2人の病死者と5人の自死者を出している。
津波で祖母と母親、4歳の息子を亡くした女性は、父親と2人で仮設に暮らす。
女性はシングルマザーで、保育士だった。
地震が起きたとき、息子が通う保育園に迎えに行きたいと申し出たが、目の前の子どもたちを置いていくわけにはいかなかった。
女性の代わりに保育園へ迎えに行った母親が、息子とともに津波にのまれた。
あのとき迎えに行っていれば、という後悔にさいなまれる。
何度も死にたいと思ったが、父親を1人置いて行けないと、思いとどまった。
クリスマス。女性は、これまでと同じように、息子のためにケーキを手作りする。
これからも毎年、作り続けると言う。
2月、息子の5歳の誕生日。女性が自死するのではと心配し続けていた父親が言った。
「死なずにいてくれて、ありがとう。うれしかった。○○(女性の名前)が幸せになってくれれば、いつ死んでも悔いはない」
2人きりになった家族が、互いに相手を思いやり、生き続ける。
浪江町の消防団長も、双葉厚生病院の元師長も、娘と連絡が取れないと手帳に書き続ける父親も、息子を亡くした女性も、震災はまだ終わっていない、それどころか、新たな悲しみや苦しみを生み出しているということを伝えている。
それにも関わらず、3.11関連ドラマは、簡単にオチをつけ、下手に希望を描く。